谷川俊太郎さん
ふくらはぎ
俺がおととい死んだので
友だちが黒い服を着こんで集まってきた
驚いたことにおいおい泣いているあいつは
生前俺が電話にも出なかった男
まっ白なベンツに乗ってやってきた
俺はおとつい死んだのに
世界は滅びる気配もない
坊主の袈裟はきらきらと冬の陽に輝いて
隣家の小五は俺のパソコンをいたずらしてる
おや線香ってこんなにいい匂いだったのか
俺はおとつい死んだから
もう今日に何の意味もない
おかげで意味じゃないものがよく分る
もっとしつこく触っておけばよかったなあ
あのひとのふくらはぎに
谷川俊太郎さんがお亡くなりになった。
僕はそこまで詳しいわけではないけれど谷川さんの作品が好きだ。
長いこと名前は知っていたけど、長いことちゃんと通ってなかった。だからむしろ皆さんの方が詳しいかもしれないぐらいだけれど。
でも以前、NHKの番組で谷川さんにアナウンサーの方が「谷川さんにとって詩とは何ですか?」というような質問をされた時、
彼は即答で「でまかせですよ。」といった感じに反応していて、「面白いおじいちゃんだな」と興味を持った。
それからちょろちょろと作品を見るようになった。
ただ本当にちょろちょろと。
どこか他人の詩作品を見すぎると、シンプルな僕の頭は変に影響されて自分の世界に出てしまうこともあるから、ほどほどがちょうど良かったりする。
谷川さんの作品の中には、ああ、これは多くの人が使いたくなる詩だろうなあというような分かりやすく美しい詩もあるけど、
上の「ふくらはぎ」のように、少し不気味な詩もある。個人的に、そちらの方に惹かれた。
「ふくらはぎ」は、自分の死を想像し俯瞰しながらも、もはやその世界に自分はいないので、どこか冷めたように状況を語っているユーモラスな詩だ。
生前、電話をかけられても全く出なかった相手が、自分を前においおい泣いている。その相手の電話に出なかったということは、死者である「俺」にはその人を避けていた理由があったんだろう。
するとすぐ次の段で「まっ白なベンツにのってやってきた」と来る。
何か言いたげで、少し冷めた空気も感じる。
そして「あの人」のふくらはぎをもっと触っておけばよかったと、かつて生きていた者らしい愚痴を呟いている描写もまた、本当に悔やんでいるというほどでもないくらいの熱量で、妙なリアリティがある。
なんだか「しくじったなあ、チッ…」と、小さな舌打ちが聞こえてきそうだ。
そういう作品を読んでいて「やっぱり面白いおじいちゃんだ」と感じていた。
ニヒルな視点がたくさんおありで、現実的で、人間のえぐみを表現することにも長けた方だと思った。
なのに不思議と愛情も感じれる。
こういう素晴らしい方が亡くなられると、ついついメディアは分かりやすく美しい生前の作品を好んであげていくから、きっと今日の朝には「生きる」などが取り上げられそうだ。
そういったものばかりを取り上げることを、谷川さんは苦笑いしながら、時にこの「ふくらはぎ」のような目で見るかもしれない。
ただ、こういう人間らしい皮肉な視点を持ってる人こそ、
照れ隠しを突き破って覚悟して愛情を書く時、すごくパワフルなものを生み出せるってこと、知ってる。
それは谷川さんの数々の作品が物語っているけれど、その背景には人間らしいシニカルな視点があるからこそだと思う。
きっと本当の感情表現にいつまでも憧れているんだ。
そこはずっとエバーグリーンなんだと思う。
谷川俊太郎さん、お疲れ様でした。
この世界にたくさんの素敵な作品をありがとうございました。
うそ
ぼくはきっとうそをつくだろう
おかあさんはうそをつくなというけど
おかあさんもうそをついたことがあって
うそはくるしいとしっているから
そういうんだとおもう
いっていることはうそでも
うそをつくきもちはほんとうなんだ
うそでしかいえないほんとうのことがある
いぬだってもし
くちがきけたら
うそをつくんじゃないかしら
うそをついてもうそがばれても
ぼくはあやまらない
あやまって
すむようなうそはつかない
誰もしらなくても
じぶんはしっているから
ぼくはうそと
いっしょにいきていく
どうしても
うそがつけなくなるまで
いつもほんとに
あこがれながら
ぼくはなんども
なんどもうそをつくだろう