「木を見て森を見ず」 から、「木を見て森を語る」危うさへ
「木を見て森を見ず」という言葉がある。
一本の木、つまり細部や個別の事象に気を取られ、森全体、つまり大局や全体像を見失うことのたとえだ。
この慣用句は、視野の狭さを戒める教訓として広く知られている。
でも、現代社会で自分が怖いなと思うのは、「木を見て森を見ず」だけではなく、「木を見て森を語る」態度。
一本の木の情報を根拠に、まるで森全体を理解したかのように断定的に「語ってしまう」こと。こういう一般化が、誤解や対立を招き、冷静な判断を曇らせちゃう。
例えば、ある業界で不祥事が報じられると、「あの業界の人間はみな腐っている」と言っちゃう人。
一方で、「俺の知り合いはその業界で素晴らしい人。やけんあの業界は信頼できるよ」と擁護する声。
どちらも、たった一本の木や、限られたサンプル、個人的な経験から「森」全体を語ろうとする点で同じに思う。
こういう一般化ってほんと…出身地、職種、人種、性別、あらゆる領域で顔を出す。これって思考停止の温床になると思う。
SNSやニュースの断片的な情報に流され、深く掘り下げることなく結論を急ぐ人は、事実を見誤るし、無駄な対立を生みがちだ。
感情的な決めつけやレッテルが議論を支配すれば、問題解決の糸口すら見失われる。木ウォッチャーの怒れる森語りが増えれば、事実に基づく対話も、「攻められるかもしれない」「誰かを傷つけるかもしれない」という過剰な配慮に阻まれ、封じられてしまう。
感情だけに流されず、全体像を丁寧に捉える姿勢が大事だなって思う。何かを訴えたいなら、そして何か社会問題に公で触れたいなら、統計なり一次情報を見たり、背景を掘り下げる習慣が不可欠だ。
もちろん簡単じゃないと思う。
僕自身、雑誌の見出しやSNSの投稿に一瞬で「分かった気」になり、深く考えずに「こういうことだよね」と言いそうになることがある。
誰もが陥りがちな罠なんだ。
それでも、しっかり事実を追う態度が大事だし、そんな人々がもっと増えれば、議論の質は変わる。社会は変わる。
だからこそ、自分が今何の「木」を見ているのか。そして「森」を語ろうとしていないか。
考える癖をつけないとなと思う。